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霊山・英彦山を駆け巡る
カテゴリ:気づき 更新日:2016.01.15
九州から戻って3週間が立ち所に過ぎた。その間、なにかと忙しなかった。
仕事のせいではなく、ひと月も東京の家を空けたのだから、ある意味当たり前だ。
そして、少し落ち着いて、いまだにブログの更新をようやくしている。
もっとも、自分にとって、今度の九州滞在はノルマを終えてもなお、どこかでひとまとめにしておくべき性質の体験。いちおう明日で〆切なのだが、正直、また気が向いたらなにか書き残しておきたい気分でいる。
貸与された田川の住居での暮らしは率直に言って、大変不便だった。Wi-Fi環境になかったからである。
今、東京の自宅でこのブログを書いているが、即座にアップ自体もできるし、なにしろなんでもすぐ調べがつく。撮り溜めた大量の写真のチェックも造作ない。
それらがまるでできないのに情報発信の任務を託されるのは、非常にパラドキシカルな体験で、思い起こせば悪夢のようだ。
いろいろと対策も自身で講じたが、田川での取材その他に動く時期と、執筆+九州全域を可能な限り遊学する時期とを大胆に分ける以外ない—と直に判断がつき、やがて実行に移した。
時間の許す限り九州の山を巡る—のも今度の滞在の大切な目的だ。紅葉も盛りと踏んだのだが、これは本州同様、遅い秋の訪れのせいで、どこもイマイチだったが…。
長丁場に渡った登山行脚の皮切りは当然、田川郡域と大分県にまたがった英彦山である。
ヒデヒコと書いてヒコと読む。その理由はかくの通り。英彦山は古来からの霊山だが、御祭神が天照大神(伊勢神宮)の御子、天忍穂耳命であることから「日の子の山」、日子山と称していた。それが江戸時代になってから「英」の字を天皇から賜ったのだ。
http://hikosanjingu.or.jp/origin/
鹿児島出身の俳人の杉田久女はこの山を愛したが、「天狗の出そうな感じ、怪奇な伝説の山」と記している。まさにその通り。表参道の千段もある石段を上り、ようやく山道らしくなってくる奉幣殿の先の道をぐいぐいと往く。そして、五合目の中津宮辺りから景観は確かに変わる。
それまでは鬱蒼とした樹海だが、その後はぐっと視界が開け、広々としたアプローチ上に奇岩がゴロゴロ転がり、巨木が天を目指して突っ立つ様は、地震の多い本州の山にはない。そこにふらっと天狗が下りてきても、なんの不思議もない気がする。
ちなみに先日、『世界最強の格闘技 殺人空手』という、それこそ奇っ怪なモンド(似非ドキュメンタリー)映画を観ていたら、鍛錬場面でこの山の石段を集団で駆け上る描写が出てきた。そこに登場する“プロ空手”は福岡が拠点だったのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=Pg0lrMUZrxA
その後も阿蘇山系をはじめとする九州の山々のスケールの大きさに感嘆するのだが、この山は今思い起こしても神秘そのもの。
山頂すなわち上宮というわけだが、左右に北岳と南岳を従えている。それらは当然登るとして、ぼくは当初の定番コースだけでなく、山の方々に散らばる末社のすべてを回ってみたい欲求に駆られた。それくらい下山途中にある、樹齢1200年という鬼杉は見事だった。いくつも小渓が合わさり、水が縦横に滴る一角に屹立するその様は、人が山を恐れかつ憧れる心象の具現と呼んでも差し支えない。
そこで時に分岐にザックを置き小走りして、暮れなずむ前には奉幣殿に戻れたが、のっけからタフに歩いた。ぼくも歩くピッチは早いほうで、道を進むほどに修験者の心持ちになっていた。
そもそも日本の登山は山岳信仰と切っても切り離せない。ぼく自身、明治期にヨーロッパからアルピニズムが移植されて以降の、スポーツとしての登山の前に登られていた、そうした山々に惹かれる。かつてこの山の岩窟に庵を編んだという無名の画家の小屋がそのままになっていたが、心中も察せられるというもの。
生意気なようだが、別に山中に入らずとも思索の日々をこれでも送っている。それが物書きという虚業に就く者の特権だからだ。もっとも、深い山の懐に抱かれると、いっそう言霊と戯れられる(気がする)。自然と向き合う生涯を送ったアメリカの作家、ヘンリー・デヴィッド・ソローはこう言った。
[生活のレベルが少し下がっても、心の豊かさがもう一段だけ向上すれば、失うものは何もない。魂が必要としているものを購入するのに、金銭など必要ないのである。]
これは自分に言い聞かすこと。さて久女は英彦山でこんな句を詠んだ。
谺して山ほととぎすほしいまゝ
解釈はご自由に—というところだが、ぼくはそんな心境で田川を後にしたのである。