Iターン
- Profile
- 岩田達哉さん(29歳)
- Data
- 岐阜県岐阜市出身。大学卒業後、2010年度の「緑のふるさと協力隊」として築上町へ。農業、漁業など町のさまざまな産業に携わり、1年間の活動期間後も築上町に在住。現在は農業関連企業に勤務している。
- Work
- 農業関連企業勤務
Q. 移住のきっかけを教えてください。
「NPO法人 地球緑化センター」の活動である「緑のふるさと協力隊」に応募して、築上町に派遣されたのがきっかけです。教師を目指して大学で教育について学んでいたのですが、大学4年の時に受けた教員採用試験で不採用となってしまい…。卒業後の進路に悩んでいた時に、新聞に載っていた「緑のふるさと協力隊」の説明会の告知を見てその存在を知り、参加してみたんです。「緑のふるさと協力隊」は、農山村に興味をもつ若者が、地方再生に取り組む地方自治体に1年間暮らし、地域のさまざまな活動に携わるプログラムです。もともと田舎暮らしや農業に興味があったということもありますが、自分がスーツを着て会社勤めするイメージがわかず…。一度就職したらそこから離れるのも難しいだろうと思い、卒業と同時に参加することを決めました。1年間という期限付きですので、その間に田舎での暮らしが本当に自分がしたいこと、やりたいことなのか確認できればいいと思っていました。
Q.移住先に築上町を選んだ理由を教えてください。
「緑のふるさと協力隊」は要請のある自治体に派遣されます。そのなかから選んで派遣先の希望を出すことができるのですが、私は海に面していない岐阜県出身ですので、海に近い場所がいいと思っていました。そこでいくつか出していた希望先の一つが築上町で、こちらへの移住が決まりました。九州へは一度来たことがあるだけで、「南国だ」というイメージをもっていたんですよね。派遣された4月に「九州はもう暖かいだろう」と思って半袖で来てしまい、寒さに震えた思い出があります(笑)。
Q.移住に際して、不安なことはありましたか。
一人暮らしが初めてだったので、生活面での不安は多少ありましたが、近くにスーパーもコンビニもありますし、どうにかなるだろうと思っていました。最初に着いたのはJR椎田駅だったのですが、町役場の方たちが横断幕を持って歓迎してくれて「いよいよこれから始まるんだ」と思いましたね。そういった温かいムードで迎えてくださったので、着いてからもあまり不安に思うことはなかったです。そして、「緑のふるさと協力隊」の派遣先のなかで築上町はすごく都会なんです。空港に30分で着きますし、電車の駅も近い。車がないと不便ですが、生活しやすい場所だと思いました。住まいに関しては、協力隊の頃は町役場が用意してくれていたので心配はしていませんでした。協力隊の期間が終わった後も築上町に住み続けると決めたら、町役場の方が今の家を紹介してくださったので助かりました。
Q. 「緑のふるさと協力隊」ではどんな活動をしましたか。
自治体によって違うようですが、築上町では産業課に籍を置き、嘱託職員として勤務していました。産業課は農林水産業全般を取りまとめる課なのですが、その関連の仕事をしていました。田植えや稲刈り、草刈りなどの農業のほか、冬は特産品「豊前海一粒カキ」の水揚げなどの水産業。さらに町で行われるイベントやお祭りなど、本当にいろいろな経験をさせてもらうことができました。思い出深いのは「池干し体験」です。農業用ため池の水を放流して底にたまっている泥土を乾燥して水質改善につなげるものなのですが、池に棲息する魚のつかみ取りなどを楽しんでもらえる一般参加型のイベントになっています。池干し自体も知らなかったですし、泥だらけになって地域の方々とふれあうのも楽しかったですね。
Q.活動期間後も、築上町で暮らすことを選んだ理由を教えてください。
「緑のふるさと協力隊」を通して、本当にたくさんの地元の方たちと知り合うことができました。1年間という短い期間ですが、ネットワークができたことを感じ、それを置いて岐阜に帰るのはもったいないなと。1年だとどうしてもまだ"お客さん"という感じがしていていて…もうちょっと深く土地を知りたいと思いました。
Q.ご家族の反応はいかがでしたか?
特に反対も賛成もされなかったですね。両親は「20歳を超えたら自分の人生。人に迷惑をかけない範囲で、自分の考えのなかで生きていったらいい」という考えなので、自分のやりたいようにやらせてくれました。
Q.仕事はどうやって見つけましたか。
「緑のふるさと協力隊」の活動が終わる前に産業課の担当者に相談しました。このまま住みたいということには喜んでもらえたのですが、仕事のことは心配されましたね。どこの農山村もそうかもしれませんが、仕事がないから人口が減っている。若い人が働いてみたいと思う仕事がなかなかないんですよね。私は農業に携わりたかったので、営農組合を紹介していただき、就職することができました。そこでは約5年間お世話になったのですが、辞める時、地元の岐阜に帰ることもかなり真剣に考えました。私はまだ若いので、これから約30年働くことになります。その30年を捧げてもいいくらいの仕事を見つけたいと思い、築上町と岐阜と両方で探していました。そこで出会ったのが、今働いている「アルク農業サービス」という農業関連企業です。勤めて約1年になります。この会社は農業を事業として捉え、野菜の自社生産や販売のほか、農作業代行、農機具の修理やレンタルなど農業にまつわるさまざまなことを行っています。就業規定のなかで週に1日か2日休み、1日8時間働いて給料をもらって農業をする。そういう形だと若い人も農業にもっと興味をもち、これからの発展にもつながるのではないかと思っていた私の理想に近い会社です。こういった働きたい会社があったので、これから先も築上町で暮らそうという気持ちになりました。
Q.築上町のいいところを教えてください。
誤解を恐れずに言うと"中途半端な田舎"であるところがいいと思います。自然もあるし田んぼや畑もある。でも遊ぼうと思えば1時間足らずで北九州市の小倉まで行ける。お店もたくさんあるし、生活に困らない。ものすごく田舎ではないけれど都会でもない、それは生活がしやすい田舎だと思うんです。なので、田舎暮らしをしたいけど、不便な場所は難しいと思っている方には最適な場所だと思います。地域の方たちは、言葉はきついですが根は優しいですね。最初は「なんしよっか!?」とか「食べりっちゃ」とか言われると、怒られている気になっていました(笑)。でも心配してくれていること、しっかり見てくれていることに気づいてからはその言葉自体も怖くなくなりました。そして、1年も暮らすと自分の言葉も変わって。最初は強く感じた「そうっちゃ」とか、こちらの言葉を自然と話すようになっていました。そして、福岡は食が豊かなイメージがありますが、その通りだと思います。私は内陸出身なので、海のもののおいしさは特に感じます。カキなんて本当に最高ですよ。ほかにも猟師さんが捕ったイノシシをシシ鍋でいただいたのですが、これもおいしかったですね。
Q.地域の方々とどうやって交流を深めましたか。
協力隊の頃はとにかくたくさんの町の方を紹介してもらいました。会合やイベント、行事などどんな場所にも役場の担当者さんと一緒に出向き、紹介してもらえるので溶け込みやすかったし、覚えてもらうことができました。そして、私にはけん玉という特技があるので、それを通して交流できたのも大きかったですね。小学2年生の時に始めて20年近くになるのですが、2008年には「クラス別けん玉道選手権大会」で一番上のAクラスで全国2位になりました。築上町でも祭りやイベントのステージに立ったり、小学校で披露したりしたおかげで、名前は呼んでもらえなくても「けん玉の人!」という感じで覚えてもらうことができました。ほかにも、協力隊の時から続けている金富(きんとみ)神社の神楽や地元の人と組んでいるバンドなど、いろいろな形で地域の方と交流できていると思います。
Q.休日はどう過ごしていますか。
趣味の釣りを楽しんだりしています。岐阜では川釣りばかりだったのですが、海釣りになりましたね。同じように釣りをしている人も多いので、海に行っては人に聞き、釣り方を教えてもらったり。そのほかは、福岡県内各地で行われるイベントに呼ばれてけん玉のステージを行うこともあります。
Q.これから築上町でどのように暮らしていきたいですか。
今の仕事もまだ1年くらいですし、初めて作る野菜も多いんです。早めに作物ごとの仕事も覚えていきたいと思っています。あとは、独身ですので、こちらで結婚して家庭を作り、さらに地域に溶け込んでいきたいですね。今の生活自体も楽しいですし、これからも築上町に住み続けたいと思っています。
Q.これから福岡県に移住を考えている方へメッセージをお願いします。
福岡に限らず、どこに行ってもそうかもしれませんが、人的ネットワークをいかに作ることができるか。それが生活を楽しくするための大切な要素だと思います。自分の得意なものがあれば、それを早めに前面に出して周囲の人にアピールしてみてください。福岡は優しい方が多いので、こちらが心を開いて飛び込んでみたらきっと受け入れてくれるはずです。
※当インタビューは、2016年10月30日に行われたものです。
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