地域の方々から、地域おこし協力隊へ
地域おこし協力隊の日々のリアルを追う
未来の地域おこし協力隊へメッセージ
地域の方々から、地域おこし協力隊へ
うきは市
矢野 尚美 さん (30代)
フルーツ推進プランナーとしての各種活動を行う。
うきはで年間を通じて採れる種類豊富なフルーツやスイーツの名店、魅力的な古民家や施設をまるごとPRするためのパフェ作りワークショップ(パフェ部)を開催。毎回厳選した素材を仕入れ、うきはならではのパフェ作りを心掛けている。
その他、お土産商品の開発、スイーツ×フルーツをPRするためのSNSでの発信、六次産業化のための加工所利用・試作などに取り組んでいる。
これまでは、ケーキ店やホテルなどでのパティシエや学校給食調理員など、「食」に関する様々な仕事を経験してきました。軽井沢・山梨・新潟など、福岡を飛び出して色々な場所でケーキ作りや料理の仕事をしていた中で、地元に帰ってきた時にあらためて「この耳納連山(みのうれんざん)の山々がすごく好きだなぁ」と思ったんですね。そういう時に、元協力隊の友人が募集情報を教えてくれたんです。元々うきはは大好きな町だったし、食を絡めて何か活動ができること、しかも町が元気になる仕事が出来るって凄くいいなあと思って。
身近にいる協力隊の友人がすごく楽しそうに仕事をしていたことも、きっかけのひとつ。副業ができるなど自由な面がありつつ、自治体の職員という働き方も魅力的で、これからの人生を考える3年間にしたかったんです。
会いたい人に仕事として会いに行ける。やってみたい事を色々試してみることができる。行政の力のおかげで、大きな会社との取引にチャレンジできることにやりがいを感じます。
協力隊OB・OGのおかげでもあると思うんですけれども、「地域おこし協力隊で来ました」っていう挨拶をするだけで、すごく皆さんウェルカムなんですよね。普通に自己紹介するのではなく「地域おこし協力隊の」を一言入れるだけで「あなたが次来た方なんだ」っていうことで、すごく笑顔で迎えていただける。そういうところがやっぱり一番ありがたいですね。
農家さんの現状を知るために、なるべく現場の声を聞きたくて、直接お話を伺ったりはしているつもりなんですが…農作業の風景など、まだまだ見きれてないなと思うところもありますね。
農家さんの考え方とちぐはぐになってしまった状態で、フルーツフルーツと言っても意味がないと思うので、そこを擦り合わせていきながら、農家さんのためにもなり、自分も活動していて楽しいことを見つけて行きたいなと思います。
行政に所属する協力隊だからこそ、「食」に関する目線がすごく広くなったと感じます。
自治体・行政が絡むことで、これまでの調理の仕事では見ることのできなかった世界を見ることができる。すごく広角的にと言うか、広い視野を持てるようになりました。いろんな企業さんと絡ませていただくこともあったり、イベント運営側を体験することで、イベントへの見方も変わったりしています。
小学校や保育園からもお声かけいただくので、お子さんに向けての食だったりとか。すごくいろんな範囲から考えさせられますね。ただ単に「ケーキを作る・料理を作る」だけじゃなくて、「食を通してどういう風につながっていけるか」とかいう部分を、すごく考えさせられるようになりました。
今までいろんな土地に住んできて「何が共通してるんだろうな」って考えた時に、「山」だったんですよね。山がある所ってすごく水がきれいで、空気がきれいで、空が広くて、というところが共通していて、そういう景色が元々すごく好き。あとうきははそれにプラスして、新しい風がすごく吹き込んでくるまちだなという風に感じていて。気が付くと新しいお店がオープンしていたり。
玄関を開けた時の風景がすごく好きで、毎朝子どもたちも玄関開けた瞬間に「お母さん今日の山はこんな色だよ」とか「こんな空気だよ」っていうのを教えてくれる。目の前にバーンと山の景色があるので、バタバタしながら玄関を出た瞬間にもほっと一息つける。その瞬間が一番好きです。
3人の子どもたちも引っ越し、転校をし、一からの居場所作りをみんなで一緒にやれたので、その分自分で考えて動くことができるようになり、それぞれに自信がついてきました。
豊前市(ぶぜんし)
今 智彦 さん (40代)
漁協組合の牡蠣事業業務およびその他補助業務。豊前市役所 農林水産課水産振興係に所属して、豊前市の漁協組合や組合が運営する施設「うみてらす豊前」に関する活動に従事。豊前市では牡蠣養殖の担い手が減少している背景があり、協力隊としてのメインミッションは牡蠣養殖に関する事業。また牡蠣は季節ものなので、夏場は「うみてらす豊前」での接客や、魚をさばく仕事などもしていた。19年秋に協力隊を卒業し、牡蠣事業者として独立したばかり。
もともとは家庭教師などの仕事をしていましたが、「手に職をつけたい、資格を持てる仕事に就きたい」と思い、30歳を超えてから歯科技工士になりました。ただ、歯科技工士の仕事自体は嫌いではなかったものの、薄利多売な一面もあり、労働時間が長くなりやすい環境。「定年まで続けることができるか?」と考えて、一次産業という選択肢に行きつきました。
漠然と一次産業を検討しており、林業や農業、漁業などいろいろある中で、どれかに決めていたわけではありませんでした。設備投資などの面で、どれもいきなり飛び込むにはハードルが高いと感じていて。あるとき福岡県の一次産業フォーラムのような場に話を聞きに行き、その際に知り合った県庁職員から数ヶ月後に連絡がきて、豊前市が牡蠣事業に従事する地域おこし協力隊を募集していることを教えてくれました。それが応募のきっかけです。そのときまでは、地域おこし協力隊の存在すら知らなかったんですよ。
漁協組合から色々な要望や依頼があり、それに応えていく中で信頼していってもらえたこと。だんだん任される仕事も多くなって、嬉しかったです。普通なら漁師に頼むような仕事なのに、地元の人間でもない自分を全面的に信じて任せてもらえた。金銭を扱うことなど、本当に信頼がないと任せてもらえないような仕事もありました。
退任した今も、困った時にはそういった方々に助けてもらったりもしているので、そこはすごく良かったなと思っています。漁協組合には青壮年部があるんですが、40代くらいの人が多く、私と年齢が近くてすぐに受け入れてもらえました。海に出てなかなか帰ってこなかったら、心配してくれたりですね。漁師の中でも、若い世代の仲間ができたこと。そして彼らも自分を信頼してくれていて、漁師仲間からも色々任せてもらえるようになったんだなと。
これまではあまり体を動かす仕事ではなかったので、自然相手の仕事に就いたことで苦労はありました。慣れない機械を使って、怪我をしたり。
だけど、自然の中で仕事をすることで、「無理をしないこと・身を任せること」を覚えました。都会に住んで働いていた頃は、自分自身の力でどうにかなることが多いから、「自分がサボっているからできないんだ」などと自分を責めることも多かった。自然を相手に仕事をしていると、人の力では到底かなわないような相手なので…自然の意思のような、大きな力に身を任せることができるようになりました。ある意味、楽になったと感じます。
もともと豊前市を選んだのは県庁職員からのすすめがあったからですが、自然の中で働き、暮らすことで、自然の美しさを知りましたね。
牡蠣養殖のいかだの上では、周りに何もなくて、ただ海が広がっていて、自分ひとりがいて。そこに、昇りはじめの朝日や沈みかけている夕日が見えると、本当に綺麗で。自然ってこんなに綺麗だったんだなと、この場所に来て知りました。そして、それを知ることができた、ということが幸せだと感じています。
添田町(そえだまち)
髙山 勇樹 さん (20代)
まちづくり課観光振興係に所属。観光に関する各種業務を担っている。2019年秋に、自身がデザイン等を手がけた観光案内所「HIKOSAN INFORMATION」が完成したばかり。普段は、その案内所での観光案内業務も担当。さらに観光イベントの運営、観光PRのためのイベント出店の業務など、幅広く活動している。
大学生の時にイラストレーターのような活動をしており、大学でも美術を研究していました。協力隊になる前の職業は、県内の小学校教諭。少人数学習支援、学級担任、教務補助などを行っていました。
九州北部豪雨で被災したことが、自分のキャリアを見直すきっかけになりました。命の危険を感じた体験や復興作業の様子を見ていく中で、「もっと地域の方々に寄り添って、なおかつ自分の得意なことで仕事ができたら」と思ったんです。元々大学で美術を研究していたこともあり、デザイン系のことで地域の役に立てたらなと。それで最初はデザイン系の会社を探していたのですが、ご縁があって添田町職員から声をかけていただいて、添田町の地域おこし協力隊になりました。
やっぱり最初は全然知らない自治体に飛び込むので、言葉の伝わり方も違いますし、地域の人々といかに人間関係を構築していくかが難しかったです。自治体を通して、地域おこし協力隊として地域の人に紹介してもらい、自分一人じゃできないところも役場の人たちにフォローしてもらいながら、人間関係を作ってきました。そのうちに自分一人でも会いに行けるようになって、今では本当に気軽にお話ができる事業者さんも増えてきたところです。
そして今では、デザインや自分の得意なことを活かして、地域の方々に寄り添いながら観光事業を通じて課題解決ができること、皆さんが抱えている悩みをひとつずつクリアしていける点にやりがいを感じています。地域の方々から、とても近い距離で「ありがとう」と言ってもらえる。その距離の近さも、自分のモチベーションを高める要素になっています。
赴任してまだ1年も経っていないので、私自身どこがどう成長しているかハッキリ実感できてはいませんが、あえて挙げるとするなら、段取りが上手くなったというか。仕事の優先順位をつけることが上手くなったと思います。
地域おこし協力隊の活動は、良くも悪くも「自由度がすごく高い活動」なんですよね。だからこそ、与えられたミッションを達成するためには、自分自身で「今日の活動はこれをやる」と決めたうえで行動すること。しっかりと自分自身のスケジューリングをすることが、とても大切になってきます。この活動期間を通して、私もその力はついてきていると思います。
添田町に決めた理由は、役場の採用担当者からの連絡でした。デザイン関連のポートフォリオを公開して転職活動をしていたら、声をかけてもらったんです。そして担当者の熱意に惹かれて決断しました。
環境的には以前住んでいた場所と似ているので大きな変化はありませんが、アウトドアをする時間は増えたように感じます。添田町には、すぐそこに英彦山(ひこさん)というすごく良い山があるし、ちょっと行けば景色の綺麗なところがいっぱいある。英彦山中腹の花見ヶ岩公園などは景色がすごくいいので、今でもよく行きます。もともと山歩きや登山などが好きで、ここに来ても自分の好きなことをしていられる。そういう点は、添田町に移住してきて良かったところだと思います。
宗像市(むなかたし)
近藤 智子 さん (40代)
大島や地島(じのしま)を拠点に、特産品開発・デザイン・情報発信・レシピ開発などを手がける。協力隊として初めて取り組んだのは、大島の特産品の甘夏を使ったカステラ。加工品を作るときに捨てられてしまう甘夏の皮に着目し、何かできないかと考えて、甘夏カステラを開発。1年ほどかけて商品化に漕ぎつけた。
現在は、地島のわかめをPRするためにレシピを考えたり、茎わかめご飯の素という特産品を新たに開発したりと、活動の幅を広げている。情報発信の面では、大島マップを作り直す施策を進めている。
協力隊になる前は、フードコーディネーター。飲食店の立上げ業務(コンセプト設計・商品開発・原価計算・厨房オペレーション教育・メニュー表やPR媒体のデザインなど)をしていました。
応募のきっかけは、インターネット上で、大島での地域おこし協力隊の募集を偶然見つけたこと。「地域の人たちと連携しながら特産品を開発する」という活動内容を見て、チャレンジしてみたいなと。大島にはもともと良い印象があったので、大島で働いてみたいなとも思いました。
苦労もありますが、やっぱり「ありがとう」と言われた時や、誰かの笑顔が見られた時は嬉しいなと思います。甘夏カステラを作る時には、商品を作ったあとにお店に置いてもらう段階で苦労しました。金額設定を1200円にしたのですが、島にあるのはもうちょっと低い価格帯の、買いやすい商品ばかりだったので…。売れるかどうかわからない1200円という価格の商品を取り扱うことに、島の方々が迷われて。自治体の方と一緒に説得したのですが、そういったところは難しかったですね。
でも、そんな取り組みや仕事に対して「ありがとう」と言われると、やっぱりとても嬉しいです。商品開発の試食会で「これは良いね、美味しいね」と笑顔になってくれたり、パンフレット制作などでも「私たちの想いがちゃんと載っているね」と喜んでくれたり。そういう時に、やりがいを感じます。
地域おこし協力隊になってみて、「人と人との付き合い」というのが本当に大切だなと感じています。自分一人で仕事をやっているわけではないですし、地域の色々な人の想いもあるので。お話を聞いて、想いを形にしていく上で、相手を否定するのではなく「どうしたら実現できるか」を考えながら仕事ができるようになったと思います。
本当に人と人との付き合いは大切だなって実感することが多いですね。人の意見をちゃんと聞いて仕事を進めていくっていうことを学びました。
周りから育ててもらっているような気はしますね。成長できる場を作ってもらっているような感じがします。
もともと、中学生の頃にバレーボールの試合で大島に来たことがあったんです。大島の中学校のお母さん方の声援がすごくて、とてもパワフルで。一生懸命に応援している姿がいいな、優しいなと思っていました。海に囲まれた環境と、人のあたたかさに、「良い島だな」という想いがずっと頭の中にありました。募集を見つけた時にその中学時代の記憶がよみがえって、応募してみました。
実際に暮らしてみての良い変化としては、夜型から朝型の生活になり、健康になりました。
地域おこし協力隊の日々のリアルを追う
香春町(かわらまち)
手島 順也 さん (30代)
地域おこし協力隊の任期中は、不動産や空き家バンクに関する活動を担当。ドローンを使ったイベントを開催するなど、並行して様々な活動も精力的に行っていた。
現在は香春町に定住して、移住コーディネーターとして働く日々。使われていない空き家の発掘から状態確認・登録、移住者への斡旋までを行い、時には大家さんの説得役も務める。隊員時代のイベントで反応がよかったドローンを仕事に組み合わせて、建物調査に活用したり、町の環境を上空の視点から紹介したり、「ドローンを飛ばす不動産屋」として活動している。
協力隊になる直前は、大阪で塾の講師をしていました。小中学生対象の進学塾で、文系科目(国語、英語、社会)を教えていました。その前にはメキシコに移住していた時期もあり、メキシコ生活で価値観が変わった部分もあります。帰国後に関東や関西に住んだのですが、都会の暮らしに面白みを見出せなくなって、田舎暮らしを考えていました。
そんな頃に、実家のある福岡県で協力隊の募集があることを知りました。明確に「不動産業をやってほしい」という募集だったので、そこに惹かれました。協力隊の仕事は、田舎暮らしをしながら公的な役割を担えることが魅力。移住して民間の企業に勤めることも考えたんですが、協力隊として移住する方がスムーズに地域に入れそうだと感じました。また、田舎暮らしや不動産業が自分に向かない可能性もあったので、3年の任期でいったん判断できるのはいい制度だと思いました。
会社に所属していると制限される行動が、協力隊では人に喜ばれることが多いんです。たとえば、副業や情報発信、前例がないことを試してみる行動など。そのような自分発信でやりたかったことに対して、結果が出たり賞賛されたりするところにやりがいを感じました。赴任先では先輩もいなかったので、自分自身が考える通りに活動できました。
空き家の大家さんは、困っている人が多いんですよね。こちらもマニュアルがないので、どうしたらいいかわからないまま話したり聞いたり。ビジネスとしてやっていたら、切るとか切らないとかにもなるんでしょうけど、やっぱりこう本当に困ってる人を見ると、「なにかできないだろうか」って。そこから解決方法が生まれて、誰かが借りてくれることになり、喜んでもらえた時はやりがい、楽しさを感じました。ありがとうと言われるのは嬉しいですね。
協力隊になる前は、田舎暮らしのステップとして協力隊制度を使おうぐらいにしか思っていなかったし、できれば大人しく静かに暮らそうと思っていました。しかし協力隊を卒業した今では、香春町に定住して不動産屋を開き、地域おこしに高いモチベーションを持って関わっている。その変化には、自分でも驚いています。
私の場合は、香春町に来てから子どもが生まれたので、ここでの生活が家庭に与えた影響も大きいです。やっぱり子どもと一緒にいる時間はなるべく多ければいいなと思いますし、実際に自分のペースで余裕をもった生活はできていると思います。今は自営業なので、一緒に過ごす時間の都合がつけやすい。以前の職業ではたぶんそれはできなかったと思うと、ありがたいなと思っていますね。
もともと私の出身が福岡で、妻は四国出身。移住するならどちらかの親と近い土地が良いので、福岡にしようということになって。そのタイミングでちょうど協力隊員の募集があったのが、香春町を最初に知ったきっかけ。それまで香春町は聞いたこともない土地で、石灰石が削り出された山(香春岳)の様子をインターネットで見て驚きました。福岡の中なのにまったく知らない世界だったので、面白いと感じましたね。
実際に住んでみて、仕事終わりのくつろぎの時間に日々幸せを感じています。
庭から山が見えるんですけど、夕方に陽が落ちていく中で椅子に座って、暗くなっていくなぁとか、18時でもう真っ暗なんだとか、グラデーションが綺麗だなとか、この後ごはんだなとか。一日の終わりに、外でぼーっとする時間がすごく幸せ。おやつを食べたり、娘がそこらへんを走りまわったりしていて。その中でぼーっとしてるのは、一番幸せに感じます。ホッとしますね。
上毛町(こうげまち)
原野 貴洸 さん (20代)
上毛町
桑原 政行 さん (50代)
原野さん:大学卒業後、新卒で協力隊になりました。大学ではロボットに関する制御や材料力学、センシングを学んでいました。大学卒業を控え、大学院進学か就職か、非常に悩んでいました。
そんな中、上毛町が「地域おこし協力隊」を募集していることを知りました。協力隊の制度について調べていくうちに、地域で暮らしながらその地域の課題に取り組み定住を目指す、という仕組みに興味を持ちました。
もともと「いつか田舎で暮らしたい」と漠然と思っていたので、「いつかではなく、こういう制度ですぐ田舎に住むのも、ひとつの選択肢としてあるんじゃないかな」と思いました。また、上毛町では情報発信がメインミッションだったので、写真撮影が好きだったことやSNS世代である自分のスキルが町の魅力発信に活かせるのではと考えました。
桑原さん:前職はメンテナンス関連の会社員。50歳を迎える頃から気持ちに変化がありました。
定年まであと10年っていうところで、「10年間をサラリーマンとして暮らすか、それとも…」という想いがありました。「残り10年を、どこかで自分たちのために楽しく生きていけないかな」ということで、思い切って会社を辞めて移住することを決めました。
そして知人から上毛町を紹介されて、実際に立ち寄ってみたんです。その時にお会いした地域おこし協力隊や町の人たちが、すごく良くしてくれて。そうした経緯で、まず移住先を上毛町に決めつつあった時に、ちょうど地域おこし協力隊が募集されるということを知りました。それでとんとんと決まった感じです。
原野さん:都会ではインターネットで調べればすぐわかることも、田舎ではなかなか情報が見つからなかったり、そもそも情報が載っていないこともあります。そんな中、イベントに来た人が「Facebookでイベントを知ったよ!」と言ってくれると嬉しいですね。この町に来てくれている人たちにとって、自分の情報発信が役に立っていることを実感して、すごくやりがいを感じます。
桑原さん:そもそも移住した理由は「これからは、人との付き合いの中で生きていきたい」と思ったことでした。だから今、地域おこし協力隊としての日々の人付き合いがすごく楽しい。町の方と関わっていく仕事なので、日常的にやりがいを感じます。もちろん人間関係なので良いところも悪いところもあるけれど、そういったものも全部心地よいと感じています。
原野さん:きっと会社に就職して都会で暮らしていると、地域に住んでいる人たちに話を聞いたりすることはあまりないと思うんです。一方で、協力隊では「地域の人を知る」ことが、とても大切だと思っていて。何かをやるにしても、何か情報を得るにしても、地域の人たちが主体となっているので。そういったところに飛び込んでいく、「地域の人たちのコミュニティに飛び込む面白さ」みたいなものは、すごく感じるようになりましたね。
桑原さん:もともと定住しようと思って上毛町に来ているので、まずはとにかく「自分たちが楽しく過ごすこと」を心がけて過ごすようになりました。自分たちが楽しく暮らし、その延長線上で地域に貢献したい、という思いを持っています。
原野さん:上毛町は私の祖母まで先祖代々暮らしてきた地域で、私もお盆休みや正月には小さいころから帰省してきていました。普段暮らしている街中とは違う、のどかな風景が子どもながらに心地よく、いつかこんなところに住みたいと考えていました。
先祖代々暮らしていたエリアには、田んぼと里山の風景のようなすごく綺麗な風景が広がっているんです。仕事などで疲れた時に、そこに行って景色をぼーっと眺めると、すごく幸せを感じます。
桑原さん:上毛町を選んだのは、知人からの紹介や、訪問してみた際に出逢った人々とのつながりでした。
応募前に今後の人生を考え直していた当時、「今後は健康で自立した生活を、お金や物に頼るのではなく、人とのつながりの中で感じていきたい」という思いがありました。それが、人のつながりの中で仕事を行う、上毛町の地域おこし協力隊への即応募という形になったのだと思います。
サラリーマンの時はバタバタと仕事に追われていたんですけど、今では追われ方が全然違うというような感じですね。自分の中身の豊かさというものが、すこし変わってきているのかなと感じています。家族と過ごす時間も今までよりもとれている。人間らしい生活を送れていて、大変皆さんに感謝しています。